『トネリコの魔女』序章 新月の夜の夢 002 魔女の隠れ家

トネリコの魔女 序章 新月の夜の夢 002 魔女の隠れ家

 森の奥に進むと、底まで透き通った美しい泉が見えてきた。魔女は泉を覗き込み、水面に映る自分の姿に向かって問いかける。
 「今日のメニューはなんだい?」
 すると、水面の魔女はゆらゆらと搔き消え、代わりに〝古エルガスト語〟で綴られた文字が浮かび上がった。「三日前の朝食を答えよ」という意味である。
 「
 魔女はハッキリとした声でそう告げると、再び水面が揺れ、今度は泉の底から一枚の扉がせり上がってきた。水をくぐってきたにも関わらず、表面には水滴一つ付いていない。
 「まさかこんなところに入口があったとはナ……!」
 トネリコは物珍しそうに扉を眺めながら感嘆の声を上げた。それを見て満足気に微笑んだ魔女は、扉を開いてうやうやしくお辞儀をした。
 「どうぞお上がり下さい。足元には気をつけて」
 扉は岸より少し奥の宙に浮いていた。外から見る限り、浮いているのは扉だ。中には空間が広がっており、何処どこかの部屋に繋がっているように見える。
 「それじゃァ、おコトバに甘えて邪魔するぜ」
 トネリコはぴょんと地面を蹴って部屋に足を踏み入れた。

 さすがは王族というべきか、部屋の中には華美な調度品が並んでいた。大理石の床の上にはフカフカとした鮮やかな緋色の絨毯が敷かれている。トネリコは目を輝かせながらその上に乗ると、感触を確かめるかのように足踏みをしたりゴロゴロと寝転がったりした。
 魔女は扉を閉め、何かをブツブツと唱えてから鍵をかけた。トネリコの側までやってくると、まるで奇妙なものを見るかのような眼差しを向けて話しかけた。
 「そんなところで転がってたら汚れるよ?」
 トネリコは一瞬目を見開き〝意味がわからない〟という表情かおをしたが、すぐにニヤリと笑みを浮かべて魔女を見上げた。
 「オイオイ……俺様が何処で暮らしてたと思ってやがる?」
 魔女は真剣な表情で足元の大きな毛玉を見つめ、暫し考えてから口を開いた。
 「……小屋?」
 「カカッ!そんな大層なものあるわけねェだろ!」
 トネリコは喉の奥でクックッと笑いを堪えながら両手でお腹を抑え、脚をバタバタと動かした。
 「……じゃあどこに住んでたっていうのさ?」
 「オウオウ!そりゃあ世界樹の上さ!縦にも横にも広さでは負けねェぞ?」
 トネリコは跳ねるように身体を起こし、両手を大きく広げてアピールした。
 〝世界樹〟はエルガストの北側に立つ世界最長の樹である。その幹は雲を突き抜け、枝葉は傘のように横へと広がっているらしい。周囲は常に雲に覆われているため、地上からはほぼ幹の部分しか見ることができない。
 「そもそも〝世界樹〟なんて呼ばれるようになる前は、本当にただの樹だったんだぜ?地べたを這うどころか地中に根ェ張って生きてらァ」
 そう言ってまた勢いよくコロコロと絨毯の上を転がり始めたが、置いてあった大きな壺に頭をぶつけ鈍い音が響いた。トネリコは声にならない呻きを漏らし、その場で悶えている。
 そのマヌケさに呆れながら、魔女は軽く溜息を吐くと、トネリコを小脇に抱えて何処かへと歩きだした。
 「オッ?!なんだなんだ?」
 「お風呂。汚れたまま寝かせるわけにはいかないだろう?」
 「嫌だ!!俺様は雨水に打たれたい!!」
 「なんだその訳の分からない要望は……」
 その後もあれやこれやと文句を垂れていたが、適当にあしらいながらバスルームへと連行した。どうやらトネリコは水が苦手らしい。ただし雨に濡れるのは問題なく、今までも時々雨水で身体を流して綺麗にしていたのだとか。
 魔女はジタバタするトネリコをなんとか押さえつけ、ユニコーンの毛を使った上等なボディブラシで身体を洗った。馬毛よりも肌にやさしく、艶が出るらしい。もちろん特注品である。
 桶に汲んだぬるま湯をかけてやると、トネリコは勢いよくブルブルと身体を震わせて水滴を飛ばした。
 「わっ!ちょっと……!!」
 突然の出来事に身構えていなかった魔女は、大きな眼に水滴が入り、パチパチと瞬きを繰り返した。トネリコは「隙あり!」と言わんばかりに、魔女の腕をスルリと抜けて走り出す。
 「湯船は絶対に入らねェからナ!!」
 「……っ!わかったから、床には転ばないで!身体もちゃんと拭いて!頼むよ!」
 お互い叫ぶように言い合った。トネリコは「ヘイヘイ!」と返事をしながら、バスタオルをマントのように羽織り、部屋へと駆けて行った。その場に残された魔女は、はぁぁと深い溜息を漏らし、誰に話すでもなく、ひとりポツンと呟いた。
 「この調子で大丈夫かなぁ……」

 湯浴みを済ませた魔女が部屋に戻ると、トネリコはソファの上でバスタオルごと丸まって眠っていた。
 「おーい!トネリコ!そんなところで寝たら風邪引くよ!」
 魔女はトネリコの身体を揺らして声をかけたが、起きる気配がない。仕方なく寝室まで運び、天蓋付きの大きなベッドの端に寝かせた。
 明かりを灯した小さなランプと〝残夜の黙示録〟を持ち込み、魔女も同じベッドの反対側へと滑り込む。近くの壁をコンコンコンと三回ノックすると部屋の照明がフッと消えた。
 暗闇の中、ランプの暖かな橙色だけが手元に落ちる。「エンゼル式ランプ」と呼ばれるそれは、ガラス管の中に淡く光る輪が一つ、或いは複数浮かんでおり、魔法によって作動するものを指す。
 魔女はトネリコを起こさないように、そっと黙示録を開いた。並ぶ文字は、エルガスト王国の象徴でもある鮮やかな夜色のインクで書かれている。全て先王の直筆であり、魔女にとっては幼い頃から見慣れた筆致だ。
 しかし、ただひとつ不自然な箇所があった。それは見返し部分に書かれた文字である。古エルガスト語で『■■■■へ』という意味だが、肝心の名前の部分が塗り潰され、読むことができない。そもそも先王以降、王家の一族は皆、のだ。もしこれが正しい遺言書ならば、王族以外の者に宛てて書いたものかもしれないし、隠しているだけで本当の名を持つ者が王族かぞくの中にいるかもしれない。
 「一体誰に宛てて書いたんだろう……」
 頭の中でぐるぐると思考を巡らせながら、魔女はそっと意識を手放した。